
眠りの落下|Falling asleep(2025)
会場:POOL SIDE GALLERY(石川県)
会期:2025.3.21 – 4.20
アーティスト:恩田聡一郎、金塚良菜、中川暁文、宮崎竜成
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眠りは、夜によって生み出される。夜がなければ、眠りは存在する理由がないであろうし、生き物は、終わりのない一日に自分を 疲弊せずに活動できるように作られることであろう。
ジャン=リュック・ナンシー 『眠りの落下』 p.38 吉田晴海訳 イリス舎
全ての動物のうち、眠ることないしそれに近い状態に陥ることのない存在は現在では見つかっていない。そして、眠りは全ての動物に対して与えられるものでも、満たすものでもなく、ただ自らの内側によって眠りに「落ちる」のである。また、眠りは抗うこ とを許さない。どんなに屈強な動物であろうと、絶対的な支配者であろうとそれに変わりはない。己の力のみであらゆる者を屈服させる暴君でさえも、眠りによって安心できる場所や、自身の身体を狙われぬように他の他者へとその身を預けなければならない。 その屈強な足をだらりと伸ばし、身体を地面に倒れさせるようにして。こうした眠りにおける落下ないし転倒は、それは少し抽象的に換言するならば、理性で押さえつけることができない身体そのものの現象であり、家父長制などの倒錯、あるいは規範の中に潜む無防備と言える。このように「眠り」はただ生理現象として処理されるだけでなく、社会的な活動に対して示唆的な態度を私たちに要請する。
今日の大量消費とその生産体系に私たちの身体自体も取り込まれてしまった資本主義において、資本としての身体はまさに眠りの否定である。そこでの眠りが身体の回復としても機能することに再び目を向ける。権力、規範、理性といった抑圧的に機能する垂直性を、眠りによって一度それを掘り崩す無防備な水平性にすること。そして、どのように生きるのかを思考するために死のプロセスやその瞬間について丁寧に触れようとすること。そのために一度、深く、眠りに落ちること。 眠りはこうしたさまざまな位相の束が活動と静止のリズムを伴って、あるいは活動と静止の決定的な特異点としての落下=転倒に よって身体それ自体について問いを投げかける。
本企画は眠りの落下=転倒地点をできる限り最高瞬間風速で遅延させることによって社会と身体とのリズムを取り直すための展覧会である。
















摩擦/ここをわたしの居場所というとき、|friction/If I say this is where I belong,(2024)
会場:プライベイト(東京都)
会期:2024.2.16 – 2.25
アーティスト:吉川永祐、西嶋夏海、宮崎竜成
主催:ポスト・パッションフルーツ
東京都の大島にてアーティストの慈が運営するオルタナティブスペースであるプライベイトにて企画した展覧会。本企画は、東京を中心に活動するコレクティブであるポスト・パッションフルーツが1年間プライベイトの管理人を委託されて運営する中で依頼されたもの。
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「今までの医療が、肥大した自我を守るために病気になった体の部分部分を切り落としてきたのだとすれば、移植は他者の一部を受け入れて自分の自我を削ぎ落とすものであるかもしれなかった。」
朝比奈秋『あなたの燃える左手で』
ここをわたしの居場所というとき、そこにはどのような線が引かれ、何(誰)がその外に置かれているのか。あるいは、そこでは何が取り戻されているのか。
「異人」という概念がある。それは20世紀後半ごろから民俗学や文化人類学などで広く用いられるようになったものだ。異人とは、ある共同体や集団において内部と外部を区切るとき、その外部に位置付けられる存在者の総称である。こうした異人の存在によって内部の秩序は形成されるのだという。異人はまれびとや商人といった内部を活性化させる歓迎すべきものとして位置付けられると同時に、被差別者や難民など、排除や犠牲の対象のことでもある。
それらを踏まえて、このように言い換えることができる。「社会は、絶えず外部を招き入れ交流することによって凝り固まった自我を削ぎ落とし、同時に守るべき自我の膨れ上がりによってそこからはみ出しそうなものを見つけ、まるで腫瘍のように切り落とし、排除する。」この秩序システムは境界線の策定によって居場所を生み出し、区切られるからこそ、自身を自身として規定し相対化することができる一方で、それが自身を飲み込むほどのリズムにまで肥大化すると、強烈な自己免疫として他者の排除へと進む。「ここはお前の居場所じゃない。」と。
また、こうした秩序システムの最も暴力的な帰結として侵略がある。現在もロシアとウクライナは戦争を続け、イスラエルはパレスチナ・ガサ地区にジェノサイドを行い続けている。
内部と外部は一定ではない、誰でも自己免疫的に線を引く場合もあれば、その線の外側に追いやられることもある。それは常に身体や空間を通して問われ続けている。
境界をめぐるさまざまな問題は世界各地で散見される。自分が安全圏=居場所にいるとして、その全てに身体を巡らせようとすれば、自己が全て削ぎ落とされ、身動きが取れなくなってしまう。そこで、自身に固有な在り方でそれらと向き合うために、線を引くこと=切断は有効である。しかし、同時に線を引くことは自身の全体主義化と表裏一体であることもまた事実だろう。
線を引くことそれ自体、そこでの摩擦が問われている。
これは、それでもなお線を引き続けなければならないとき、その線を引く摩擦の振動を自らの身体に刻みこむ、その感触のための展覧会である。



















ケルベロス・セオリー これからを考えるためのこれまで(2023)
会場:芸宿103(石川県)
会期:2023.6.10 – 6.23
アーティスト:ケルベロスセオリー(やまもといとみ、モチェ・レ・サンドリヨン)
愛知県を中心に活動する、クィア・フェミニズムを参照しセー ファー・スペースとアートの場を考えるアーティスト・グルー プ「ケルベロス・セオリー」による学生・若手アーティストを対象としたワークショップや、ケルベロス・セオリーのこれまでの活動紹介、そして金沢でクィア / フェミニズムの活動に関わる団体との交流を通したトーク形式のディスカッション及びそれらのアーカイブ、またメンバー個人の作品などを総覧する展覧会を企画・開催した。
本企画は金沢のアーティストランスペースである芸宿の10周年を記念して行われたイベントであり、それぞれの居場所や誰かにとって居心地が良いということ、という芸宿というスペースのあり方を、フェミニズムやセーファースペースという手がかりによって考えるきっかけになるよう企画した。
本企画は展示の形式であるが、ただ作品を展示してもらうのではなく、金沢を拠点としてフェミニズムやセーファースペースの実践を行うゲストを招いたトークイベントや、ケルベロス・セオリーによる学生を対象としたレクチャー、芸宿に置かれた本の中からケルベロス・セオリーによる独自の選書を行うなど、実際に金沢のコミュニティや芸宿と関わるようなイベントを行い、それをその場でアーカイブし、発表する展示という形を取った。







密室、風通しのいい窓、ぎこちないモンタージュ(2022)
会場:名古屋市民ギャラリー矢田
会期:2022.1.7 – 1.16
アーティスト:うえだあやみ、定村瑶子、宮崎竜成
デザイン:竹村美紅
主催:ファン・デ・ナゴヤ美術展2022「密室、風通しの良い窓、ぎこちないモンタージュ」実行委員会、公益財団法人名古屋市振興事業団
愛知県名古屋市の展覧会企画公募である「ファンデナゴヤ美術展 2022」に採択されて実施した宮崎企画による展覧会。
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「密室、風通しの良い窓、ぎこちないモンタージュ」は「ファンデナゴヤ美術展 2022」に採択された、うえだあやみ、定村瑶子、宮崎竜成の三名によって行われる展覧会であり、絵画とパフォーマンスを通し、あらゆる二項対立を共存させる身体について問う抽象的かつ具体的な実践の一つでもある。
ソーシャルメディアが飽和した社会の現状において、多様性という概念のもとに、身体やそれを取り巻く環境は一層複雑化している。一方、多様性という言葉が絶対的な基準点となってしまうことで複雑さが失われ、単純な二項対立へと還元されてしまうこともしばしばあるだろう。
どうすれば複雑さを保ったまま相反するものたちと関係することができるのだろうか。
本展覧会は相反する対立項の中でも特に「内」と「外」、より具体的に言えば、「室内」と「室外」、そして相互の「交通」を取りあげる。ぐるぐると輪を描き、部屋を作る。それはあらゆる意味から自閉するテリトリーでありながら、私たちは窓を開けて風を取り込み、たまには友人を招き入れる。
部屋の空気、外の空気。輪を閉じながら、同時に開き、他の輪と出会うことでその形を絶えず変化させること。私たちは招かれるべき来訪者であり、招き入れる居住者でもあるのだ。一方で、招かれ「ざる」べき来訪者であり、拒絶する居住者でもあるだろう。 その身体は中途半端でぎこちないかもしれないが、そのぎこちなさを生きることについて、私たちは私たちなりの場をつくる。










Polaris(2021)
会場:芸宿(石川県)
会期:2021.10.23 – 11.3
アーティスト:慈、林修平
デザイン:山本千穂
制作協力:石川愛美、臼田健人、西村颯貴、朝倉毅
主催:公益財団法人金沢芸術創造財団、公営財団法人金沢文化振興財団
共催:金沢市
公益財団法人金沢芸術創造財団が主催する金沢市内中の美術施設にて8〜10月の間イベントを開催するプロジェクト「金沢ナイトミュージアム2021」の一環で企画した展覧会。
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-序- 可塑的な共同体/変遷する領土
我々は常に、社会の中の一部、つまり共同体の秩序を担う一部、あるいは主体的に世界を捉えていくような一個人という相反する状態を共存させている。「わたし」という1人の個人的な身体を定義する時、そこには社会における制度や階級が否応なく付き纏う。どこの会社に勤めているか、どのような家族構成か、性別、人種、言語…。そこには様々なスケールでの共同体が形成されている。それぞれの共同体には異なるルールが存在し、そのルールに則って自らの行動を振る舞う。ルールはある中央集権的な権力によって規定される場合もあれば、自立分散的に様々な個人が行動し、それぞれの折り合いがつく一定の基準を設けることで構成される場合もある。また、それぞれの個人の思惑が自然とイデオロギー化し、共同体の中でそれぞれの人々が自ら生み出したイデオロギーによって無意識に統治される場合もあるだろう。
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芸宿という場所は面白い。芸宿には目指すべき理念がない。芸宿は「誰かにとって都合の良い 場所」ということを立ち上げ当初からキャッチフレーズとしている。それは、芸宿という一つの共同体として理念を掲げるのではなく、芸宿を取り巻く人々や、その周辺それぞれの理念が尊重され、交錯することを意味している。相反するものたちがひしめき合い、場を共有すること。そこには美術における志や一つの共同体としての運営は存在しないと言っていいだろう。あるものはただ生活のために移住し、あるものはアーティストとして企画を行う。あるものは食事を定期的に振る舞い、あるものは芸宿自体の維持管理として会計を行う。その中には芸宿の歴史や文脈をよく知る者もいれば全く知らないままの者もいる。それは極めて閉じられたサイクルである一方、近所のおじさんおばさんや飲食業の運営者がふらっと現れたり(立ち上げ人の弛まぬご近所付き合いによるところが大きい)、見ず知らずの学生や美術関係者が現れたりするなど、極めて開かれた空間でもある。それらのものが現れる時、住人は平然とその場で共存する( 招き入れるという態度すら希薄であると言ってもいい)。このように芸宿は一つの共同体や 運営として表象するのが困難であり、複数の個人的領域やその時々の共同体が互いを打ち消し合うことなく共存しながら、その都度変化し続ける空間、事象としてある。
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そもそも、これほど共同体について考えることになったのも、わたしがナイトミュージアム企画の一つとして、芸宿を使って、あるいは芸宿主導でイベントを行ってほしいと頼まれたことに起因している。わたしはその時、芸宿関係の人として認識され依頼を受けたのだが、ナイトミュージアム事業を通して芸宿をパッケージングされた表象として提出することはしたくなかった。だからと言って、芸宿のギャラリースペースを間借りして展示する、というのも違う。むしろ芸宿という一つの場が持つ極めて複雑な共同性にこそ、目を向けるべきではないか。身内的な閉塞感があり近付き難いようで、実際に住んでない人々もそれぞれの当事者性を持つ。閉じながら開かれる場所。そこでは様々な当事者性がうごめき、様々な都合の良さをかすめ合いながら、時に人々が入れ替わりつつ可塑的に持続している。それを「共同体」という言葉を手がかりに展覧会を通して取り出すことについて、実践したいと思った。しかしそれは芸宿をテーマとして行われるものではない。可塑的な共同体に、展覧会という形式によって作品=物=身体が挿入される、それが肝要なのだ。
ある環境に作品が置かれるということはそこに領土が生まれるということだ。とある空間に物が置かれている。それを自覚的に経験せざるを得ない展覧会という形式は、そこに住む人々の身体やその痕跡(共有スペースに置かれた食器やレジデンススペースの萎れた布団)をも巻き込みながら、絶えず異なる領土性の衝突を起こし、相互の身体や環境自体が作り変えられるかもしれない事態を引き起こす。作品の挿入、領土の発露は、それを取り巻くあらゆる存在の営みをその持続から強烈に切断/引き剥がし、それぞれにバラバラの知覚を与える。そのバラバラの知覚の出会いと、複数の個人的領域のせめぎ合う共同性を重ねて見せること。
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ポラリスとは現在の北極星に当たるこぐま座の恒星である。北極星は広大な空の中の一つの星であるが、その僅かな一つの煌めきが膨大な領土を示す。私たちが今、ここにいること、それ自体を指し示す表現の立札。しかし、一見絶対的なものに思われるそれは、歳差運動と星自体の固有運動によって北極の極地からズレ続け、数千年の年月をかけて別の星に北極星の座を空け渡す。ポラリスは、我々に北の地点を指し示す記号的イメージである前に、一つの物質なのであって、我々の観測する距離では認識不可能なその物質は、他の惑星や恒星と複雑に干渉しながらその位置を移動する。北極星という領土性は結局人間の制度や文明が規定したものでしかなく、様々な星による複雑な運動によってその意味は容易く剥がされてしまうのだ。膨大な時間の中で、ポラリスが指し示す領土の意味は変化する。ポラリスは変遷する領土だ。常に同じ基準を持ち続ける共同体などあり得ない。芸宿も、様々な速度で人々が入れ替わる。展覧会で置かれる作品も、それが絶対的な基準になり得ることはなく、様々な制度のなかでその身体のあり方を絶えず作り替えるだろう。本展では、作品やそれを取り巻く環境とのやりとりを通し、共同体をポラリス=変遷する領土として観測することを試みる。
























写真:吉川永祐