物質は保存する

 なぜ「もの」を作ってしまうのか。これは私にとってものすごく大きな問いであり、私が美術というフレームで活動する上での立場を考えるものでもある。今、特に革新めいた答えはないけれど、思考のスケッチはいくつかある。その中でも最近は本について考えていて、というのは、博士課程になってから小説以外の本を読む時間が爆増したこともあり、所持する本が自身の生活空間を圧迫し出したことによってKindleを導入し始めたことが事の端緒となっている。私はずっと紙媒体の本が好きで、電子媒体の本が受け付けられなかった。けれど、特になぜ紙媒体が好きかという明確な理由はないまま、失礼ながらいざ読んでみてまああまり読み返さないかな、という本が増えていったり、読んでみたいけど今やってる事に直結するわけではないし、お金がない上にに部屋を圧迫するのもちょっとな、という理由で手を出していなかった本が多かったたりする中で、Kindleなら場所を取らないし、価格も抑えめだからいいやん、といった具合で上記のような本を読むために使ってみることにした。そしたらね、もう便利ったらありゃしないの。ページにマーキングしてすぐそのページに飛べたり、線を引いたりメモをしたりできるし、その書き込みを簡単に消すこともできる。それはただ消すというような可塑性ではなくて、描いたことをなかったことにできるというものだ。本の中で時間や空間さえも自由に切断できる。

 ただ、その便利さを痛感するのと比例して、自身の電子媒体に対するモヤモヤがクリアになっていくのも感じた。それはなぜか、クリアになった結果何が見えたのか。

 それは紙媒体が保存するものは感覚なのだということだ。電子媒体で本を読むとき、それはパソコンかiPadかiPhoneかという差はあれど、全ての書籍がAppleやSONYといった会社の規格及び透過光に縮約される。一方紙媒体の場合、A4やB5といった規格はあるものの、それが手に触れられることを前提として、紙の質、インク、一ページに収める文字数や行間に至るまで様々な規格を組み合わせることによって、その本固有の身体を獲得するのではないだろうか。それは、文章を記号的な意味として伝達するにとどまらない手触りや文字が意味を持つ手前の配置による感覚的な経験や出来事それ自体を物質として保存している。言葉が、意味が、本それ自体として身体を獲得し、読むという行為で私と本の身体が跨ぎ合い、感覚を発露させ、それが経験として知覚される。こうした肉薄する関係を好んでいたのだと、Kindleを通してクリアになった。 

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