私なりの現代美術

現代美術とは何か。「現代」の「美術」。それはギャップだと思う。世界とか、社会とか、無意識レベルで納得している事柄に差分が生まれること。故に、新しいということも世界に対するギャップの一つだ。現代美術が常に新しいメディウムや思想を求めるのはそこに起因している。一方で、新しくなくとも、世界とのギャップを発生させることができる。その技術や表象を私たちは「現代」の美術と呼ぶ。
ゆえに、現代美術は根本的に分かりが良いものではない。なぜなら、私たちの前提としているものや共有しているものを揺さぶってしまうからだ。皆がりんごの赤さに注目するのに対し、りんごの内側の白さがリンゴの丸い質感を保たせているのではないかと思うみたいな(例えが悪すぎる…)。
しばしば、意味不明なことやものを指差して「現代美術やん笑」と比喩する時、ある意味では比喩でなく実直にそれが正しい使い方とも言える(とはいえ露悪的に使っているので好きではないが)。
私の周りの皆は現代美術はもういいやと吐き捨てる人達が多いのだけれど、それはもう、今「現代美術」とされている作品たちを見ても世界とのギャップを感じられないからなんじゃないかと、時々思う。
では私はどうか。私は普段生きている中で世界に躓くことがある。躓くというのは、皆が前提としているものごとに対して、本当にそうなのか?という問いが生まれることと言い換えても良い。しかし、その問いによる世界のモヤモヤには簡単な答えがあるわけではなく、そのモヤモヤの中に居続けて、考えるために作品制作がある。モヤモヤの中に居続けるのはある種の辛さを伴い続ける。なぜなら答えのない、定式化されない、見えるものだけを見るわけでもない、そして、「こうだ!」という結論がない、無数の「こうかもしれない」という多様性に身を投じることだからだ。多様性はなにも綺麗な言葉ではなく、無数の相容れない価値観や性質、事実を否定しないということで、それはとてつもなく難しいし、まさにそれこそ世界とのギャップの対峙そのものである。モヤモヤや多様性に耐えること。
その点において、私は明確に現代美術をやっているが、「これは現代美術だ」と形式をパッケージングされる形で消費されるとちょっと嫌だと思うし、きっとみんなそうした嫌さを少なからず抱えているのかなと思ったりもする。

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