加工と仮構

2023/11/20-2023/11/29
Hakuichi-building 5F(Ishikawa)

Installation view▼

箔一ビル5Fにて行われた個展。会場では《肉のエチュード》という映像作品と、それに付随するいくつかの作品が展示された。

Works:
《肉のエチュード》2023 シングルチャンネルビデオ 50m22s
精肉販売業を営む父親が肉を加工しながら精肉加工についてのレクチャーを行うレクチャーパフォーマンス映像。基本は定点で肉が切り分けられ、真空パックやスライサーなどの機械加工の際にのみカットが切り替わる。

《石鹸》 牛脂、苛性ソーダ
精肉加工の際に取り除かれた牛の脂で精製された石鹸。

《観客席》 2023 1人が座る程度のサイズの石鹸で磨いた絨毯
会場のカーペットの一部を上記の石鹸とスポンジ、雑巾にて執拗に磨くことで作られた四角い観客席。

《清潔のモニュメント》 2023 モニターに画像
観客席を作る際に床を磨くことで汚れた自身の手を撮影し、モニターに投影した。

Statement

1

私は大学進学のため、18歳で地元の京都を離れ、石川県に移住した。現在も石川県に居を構え、もう10年目となる。私の実家では両親2人と、現在では少しばかりの従業員を雇って精肉店を営んでいる。そのため、私は小さい頃から食肉センターで皮を剥がされ、内臓が掻き出された状態の丸々一頭の牛が足を縛られ、逆さになって何頭も吊られている現場を目にしてきた。その時の状況を鮮明に覚えているわけではないが、そこで目にした赤白い塊を見て、それが固有の牛としてあるのか、肉塊としてあるのか、当時の私には訳もわからず混乱してショックを覚えたこと、そしてその肉の艶やかな質感だけは今でも鮮明に残っている。それは命が殺戮されたことへの恐怖ではなく、そこに付随する生命から物質へと変化を遂げるその飛躍への理解不能な畏怖であった。

2

私の両親は今の私よりも若い時から食肉センターから肉を卸し、部位ごとに捌いて加工・販売する精肉業を営んできた。精肉、つまり肉を精製する行為における「精製」とは混合物を純物質ににする行為であり、古くはB.C.3500年ごろに行われた酸化鉄の還元や、A.D.1600~700にかけて化学の前身となるの錬金術が、卑金属を貴金属に変える試みをこなったことを思い起こさせる。肉の塊から部位を「取り出す」行為は、一つの塊から、より柔らかい部分と硬い部分とを選別し、さらに、食肉として余分とされる脂や筋を取り除くことを指す。さっきまで同じ塊であったはずのものが、切り分けられた瞬間、硬いもの、柔らかいもの、そして価値の高いもの、低いものへと変化し、定義づけられる。換言すれば、食肉と定義づけられた瞬間に、牛は様々な不純物や部位を含んだ混合物とされるのである。こうした食肉の加工技術は、突き詰めていえば、錬金術が卑金属から貴金属への精製を不完全な人間から完全なる人間、つまり不老不死へとパラフレーズしていったように、完全な製造物への要求が消費者と生産者との関係において含まれていると私には思われる。肉を神に変える物としての加工者。

一方、加工において余分とされる脂は廃棄されるのではなく、学校などで使われる固形石鹸に用いられる。筋はミンチにしてハンバーグやコロッケなどに使われる。削ぎ落とした余分な肉はスライスとして売られ、軟骨はデミグラスソースの出汁となる。切り分けられたものはそれぞれの特性を持った部位や調理法に適った状態に切り分けられ、販売される。
人間は一頭丸々の牛を渡されたとしてもそれを自力で食すことは難しい。人間はライオンのような牙は持ち合わせていない。だからこそ、加工者が牙となり、肉を消費社会に向けて再配分する。それはちょうどミミズや微生物が不純物を分解し、循環社会に換言する営みに似ている。そう考えてみると、食肉加工における分解には二つの相反する側面を含有していることに気づく。一方がより完全なものへと根ざされる分解、そしてもう一方は物質を普遍的なものではなく、流通として有機的に循環させる分解である。加工者はその双方を仲立ちする。神を卸し、そして神を堕す。

4

私は石川県のとある高校に非常勤講師として努めており、そこでデザインにおける材料の加工法について教えているのだが、それにあたって、加工とは何か、その根本について調べてみることにした。すると昭和32年に発行された厚生労働省による「食品衛生法の一部を改正する法律等の施行について」において、「「加工」とは、ある物に工作を加える点では製造と同様であるが、その物の本質を変えないで形態だけを変化させること」という定義が説明されていた。では精肉業者における加工は、食肉としての物質性を担保したままその役割や特性、価値が加工者の工夫を伴って割り振られることになる。そしてそれは、分割された肉の価値の変化という飛躍が、あくまで視覚、触覚、味覚を踏まえた形態的変化に依拠することを意味している。肉という本質。しかしそれは神=キリストの受肉ではなく、人間の欲望と抱き合わせながら生々しく引きずり出された剥き出しの物質に対する仮構としてのモニュメントである。