仕事とか趣味とかわからん

 さて、最近、職場の一つである某高校の忘年会があり、来年も続投の意思があるかどうかを聞かれた。

 まずい、何も決まっていない。かなり距離の離れた席でベテランの先生が「最近の若い人は仕事はしたくない、でも作品は作りたいなんて言っていてどうしようもない」という旨(というかほぼ原文ママ)の発言をしているのが聞こえる。いやーまあ、全くもってその通りですという気持ちと、いや、全くその通りではありませんという気持ちになる。もはや、私が別の職場である美術施設でイベント直前の搬入準備があり、飲み会の一次会が終わった9~10時あたりからまた現場に戻らないといけなかったとしても、「あ、今日は飲めないんですー」と言えば「車?代行代払うから飲んでいきなよ」と言われ、そうなると、もう「こちとら別にあななたたちと飲みたくなくて飲んでないんじゃないのよ、別に飲みたいとは思ってんのよ、ワイン好きなのよ。今、この目の前に広がる能登牡蠣のアヒージョを前にしてジンジャエールを飲む私はなんと愚かなと思ってんのよ」って気分だから、正直に「この後仕事で職場に戻るんです…」というと、「また可愛い言い訳しっちゃって」と茶化される。別に私はそういった発言にイラッとせずに受け流せてしまうのだが、それよりも、ああ、こんなにも「美術やってます」という私なりの仕事のあり方は伝わることがないのだと、博士を出て突きつけられるばかりである。

 とはいえ、確かに、冷静になってみれば夜10時に職場に戻るなんて意味がわからないよな。そりゃそうだ。嘘ついてるに決まってる。そう思う。そして、そういった働き方に問題があるとも言えるだろう。だが今問題にしている事柄の根本はそこではない。私が高校勤務以外で行っている一才は仕事認定されていない。そこが肝である。平たく言えば趣味的に映る、あるいは趣味性を欲望されると言い換えても良い。少なくとも周りの一部の教員としては、アーティストというのは、しっかりと美術教育に邁進しながら団体公募展で会員になったり受賞したりすることなのだ。

 それを否定するつもりも毛頭ないし、ある面ではとてもリスペクトしている。ただ、そんな中で、私が施設で展覧会を企画したり、事務仕事をおこなったりすることの細やかな機微をどんなに説明しても、それはリアルな事柄として受け取られない。アーティストとしての展覧会活動やフリーでの演出の仕事となるとなおさらである。
フリーランスとしての制作は、ここで非常勤講師をやらねば生きていけない時点でどのような機微があろうと趣味的に認定される。

 でもいや待てよ。私は、自分が面白いと思ったこと、自分のいる場所で制作を信じるために必要だと思うことをするためなら自腹で有金を使いまくるというメンタルなのだが、今はその元手に非常勤講師をやっている。じゃあ稼いだお金を消費して展覧会やらイベントやら制作やらをやっているなら、それは確かに対外的に見たら趣味性以外の何者でもない。よく言われる仕事の定義は、その労働の対価として金銭を支払われるものだ。

 私はここ一年で、ありがたいことに対価が発生する展覧会やイベント運営に参加させてもらったが、とは言え、それだけでは到底生きられない。また、そもそものメンタリティとして、私の優先順位は真っ先に[自分のやりたいこと]があり、ついで、[それが何を打ち立てるのか]という気持ちがある。次いで、自分のいる場所で制作を信じるために必要だと思うことを考えて動く。そして、このメンタリティによる出来事の連鎖をどう「持続させるか」、それを精一杯考える。正直、持続のさせ方は一定ではない。コマーシャルでバカ売れするのか、助成金取りまくるのか、あるいは他で稼いでそれを突っ込むか。そう言った在り方を必死に模索して実践する。だから、そういう意味では、私のやっていることは仕事なのか趣味なのか正直わからない。いや、むしろどっちでもいいと思っている(いつも仕事や趣味を聞かれた時に困る)。大事なのは「持続させること」、つまり活動するための「技術」とその「内容」のせめぎ合いである。

 とはいえ、高校で勤めているからには存分にやっているし、勉強にもなる。ただ、長期的に続けたいかといえば上記のせめぎ合いを経て、正直わからない。他の方法やルートもある。その委細を必死に編み込む。そんな私が、「来年も続けるの?」という質問に対して「うーーーん、正直わからないです」「じゃあどうするの?」「決まってません」と答えることによって、「働くことに向き合わずダラダラふわふわ人生を遅延させる近頃の若者」と認定されても、それはおそらく、嫌味でもなんでもなく何も間違っていない。

Posted in