墓を洗う

 新年は毎年祖父母の墓参りに行く。大学二年生からやから、もう7年目か。毎回、バケツに入れた水を柄杓で掬って4回5回くらいか墓石にツルツルとかけていくわけやけど、これはお墓を清めるとか、そんな何かしらの意味合いがあるんやろなと思いながら、とはいえあんまなんも考えずにいつもその行為を繰り返していた。ただ今回は鳥のフンとかお線香の炭なんかがこびりついていて、汚れを落としてあげへんとな、なんて思ったけど、その時この墓石は祖父母そのものなんかな、それとも祖父母の「身体」を墓石に投影してるんかな。どうなんやろ。

 墓というモニュメントはある種の複雑な抵抗のようだ。環境に埋没しないように掲げられた立札。生い茂る雑草や雨風での汚れによって混ざり合うことなく、その存在を際立たせるように。きっとそれは祖父母の身体であり、同時に祖父母の身体ではないのだろう。墓石は観念の物質化ともいえる。私は墓石という物質的身体そのものを洗い流すことで、実体を持たない祖父母の観念を持続可能なものとする。それは墓石という存在自体が祖父母を表象しているという前提のもとである。一方で、墓石は祖父母の非物質的な身体を私たちの主体的な知覚から切り離す。ただそれも、人生という現象を留めようという現世(わたしたち)の主体的欲望によって駆動しているのだろうが。
なんだか定義の広い言葉しか使えない。私はまだこの矛盾する身体/非身体としての墓石を掴みきれずにいる。

 また、わたしたちは墓石を前にして、目を瞑り、手を合わせる。そこで「僕は元気です。」とか、「今年もきたよ。」とか、具体的な言葉を思い浮かべてみたりもできるけれど、なんだかそこに本質はないように思われてならない私は、ただなんとなく目をつむり、なんとなく手を合わせる。それは別にやる気がないとかそういうわけではなく、むしろ知覚しえないものに対する向き合い方のプラクティスであり、感覚し得ないものを感覚する。そんな直感/直観のパフォーマンスなのだと思う。目を瞑るのは知覚しえるものの遮断、切断であり、手を合わせるのは自身の身体感覚を自分自身の直感/直観対して差し出すことだ。ただし、そこでは墓石は祈りの口実としてのみ役割を演じ、その身体/非身体としての物質的な実在は徹底的に置き去りにされている。

 この霊園は高地にあって、宇治の町を一望できる。一通り終えて墓石からさりながら眺めた街は、一望できるにもかかわらず、見える建物や樹木は、本当にそこにあるんかってくらい物質性が解離していて、私はこの街のことがわからんくなった。

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