お誘いを頂き、東京都にあるプライベイトというスペースで展覧会を開催します。
最終日にはプライベイトのクロージングパーティーもあるそうです。それに合わせて、展覧会に関するイベントもおこなうかもしれません。詳細はまた追って告知いたします。
どうぞよろしくお願いします。
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『摩擦/ここをわたしの居場所というとき、』
2024年2月16日(金)〜2月25日(日)[金、土、日のみ] 13:00-20:00[最終日は〜18:00]
会場▶︎プライベイト
東京都江東区大島5丁目25-12
tokyoprivate.theblog.me
入場料▶︎500円[*学生無料]
作家▶︎吉川永祐/西嶋夏海/宮崎竜成
企画▶︎宮崎竜成
主催▶︎Post Passion Fruits
ステートメント▼
「今までの医療が、肥大した自我を守るために病気になった体の部分部分を切り落としてきたのだとすれば、移植は他者の一部を受け入れて自分の自我を削ぎ落とすものであるかもしれなかった。」
朝比奈秋『あなたの燃える左手で』
ここをわたしの居場所というとき、そこにはどのような線が引かれ、何(誰)がその外に置かれているのか。あるいは、そこでは何が取り戻されているのか。「異人」という概念がある。それは20世紀後半ごろから民俗学や文化人類学などで広く用いられるようになったものだ。異人とは、ある共同体や集団において内部と外部を区切るとき、その外部に位置付けられる存在者の総称である。こうした異人の存在によって内部の秩序は形成されるのだという。異人はまれびとや商人といった内部を活性化させる歓迎すべきものとして位置付けられると同時に、被差別者や難民など、排除や犠牲の対象のことでもある。それらを踏まえて、このように言い換えることができる。「社会は、絶えず外部を招き入れ交流することによって凝り固まった自我を削ぎ落とし、同時に守るべき自我の膨れ上がりによってそこからはみ出しそうなものを見つけ、まるで腫瘍のように切り落とし、排除する。」この秩序システムは境界線の策定によって居場所を生み出し、区切られるからこそ、自身を自身として規定し相対化することができる一方で、それが自身を飲み込むほどのリズムにまで肥大化すると、強烈な自己免疫として他者の排除へと進む。「ここはお前の居場所じゃない。」と。内部と外部は一定ではない、誰でも自己免疫的に線を引く場合もあれば、その線の外側に追いやられることもある。それは常に身体や空間を通して問われ続けている。境界をめぐるさまざまな問題は世界各地で散見される。自分が安全圏=居場所にいるとして、世界の問題全てに身体を巡らせようとすれば、自己が削ぎ落とされ、身動きが取れなくなってしまう。そこで、自身に固有な在り方でそれらと向き合うために、線を引くこと=切断は有効である。しかし、同時に線を引くことは自身の全体主義化や原理主義化と表裏一体であることもまた事実だろう。線を引くことそれ自体、そこでの摩擦が問われている。これは、それでもなお線を引き続けなければならないとき、その線を引く摩擦の振動を自らの身体に刻みこむ、その感触のための展覧会である。