椎名林檎の身体と声

 東京事変がついにニューアルバムをリリースした。約10年ぶり。題名は「音楽(ミュージック)」。発売初日の6月9日(ロックの日)にフォーラスのタワーレコードへ直行する。早速帰りの車で流したのだけれど、もういろいろな感情がない混ぜになってしまって、未だ感想を言葉にできないでいる。(別に言語化する必要はないのかもしれない。)

 そういえば、日曜日に関ジャニ∞の冠番組で東京事変の特集がやっていた。わたしが借りている一軒家は風呂もネットもテレビの通信受信機さえ無い家賃3万円のボロ家で、かといって「今から東京事変特集やってるから家行って良い?」と軽率に頼み込める友人達はもう大学をとっくに卒業し、この土地にいなくなってしまっているわけで。もう見ることは半ば諦めていたのだけれど、Twitterでこのことを嘆いていたら、妹が「Tverで見逃し配信やってるよ。」と教えてくれたたり、後輩が録画していることを教えてくれたりしたので、違法アップロード待ちという到底許されぬ愚か極まりないことを考えずに済んだ。マジLoveやわ。

 アルバム発売に合わせてメディアに露出するこの感じは、改めて再結成してJ-popバンドとして活動していることを思わせてくれる(わたしが東京事変をちゃんと認知したのは解散直後の2013年)。番組の内容は東京事変メンバーがメンバーのそっくりさん(親戚)という設定でゲストを交えて談義するというもので、いかにも椎名林檎的エンタメの延長だなと感じるが、この「いかにもさ」はこの設定を椎名林檎が考案したのか、番組プロデューサーが提案したのかを宙吊りにしている。椎名林檎は、ありとあらゆるライブ以外のメディア出演及びインタビューの際、エンタメ的、あるいはショー的身体を前景化させた上で、自身の音楽的身体、または音楽的言語を表現するのだけれど、それは清く正しいJ-popの態度だ。この清く正しい態度を今でも貫き続けるのは凄いんじゃ無いか。その徹底した身体的態度が、今回の「露悪的」な設定がただ「露悪的」にならないような何かとなっているように感じる。うまくいえない…自分で何言ってるかわからんくなってきた。ようは、実存として自身の音楽的身体(あるいは運動する身体と言い換えても良いかもしれない)と美的身体とを直接結び合わせるのではなくて、popsや歌謡のようにある物語を作り上げ、その物語の一人称を自分に憑依させつつも、同時に歌い手自身がもはやその一人称へと生成変化してしまっているような、そんな憑依-演劇の二重性を前提として自身の音楽的身体、美的身体を表現しているという、そのパフォーマティブな態度が至る所にまで徹底されていることにグッとくる、そういう話。J-popが身体を通してパフォーマティブに徹底される。「それ以上でもそれ以下でも無い」凄み。(椎名林檎以外のメンバーはそれに対して全然やる気がない。)

 話を内容に戻さないと。永遠に脱線し続けられるな。放送の内容では関ジャニ∞の丸山さんが指摘する点が興味深かった。それは「金魚の箱」という曲においてAメロでは可愛い女の子の声、Bメロでは大人の女性の声、サビではその2人が合わさった声である。というもの。聞いてみると「確かに!」と思う。もちろん音程の差によるところもあるのだろうけれど、その一連に対しての椎名林檎の返答がまた興味深い。椎名林檎はさだまさしの「精霊流し」の声色が自身の演奏するバイオリンに依拠していることを指摘する。そして、椎名林檎の声色も、さだまさしのようにそれぞれ演奏される楽器の隙間に入れるように意識しているらしく、例えばギターがバッキングを鳴らせばシャウトまじりの声色を選ぶなど、楽器に対するフィードバックとして声色がある。ただ歌声が中心で、楽器はそれに帰属するというわけではなく、声自体も一つの楽器として意識されているという点はなるほどという感じ。声は主体化されるだけでなく、それ自体が絶えずアレンジメントされるのだ。わたしは音楽の知識は乏しいので、そんなの当たり前なのかもしれないし、当然椎名林檎に特権化して言えることでもないと思う。それでも、圧倒的な技術と文脈によって形成される椎名林の数多の声色が、理性的にではなく、スポーティーに反射神経で行われているというのは感動的だ。楽器と声が絶えず互いに衝突し合い、同期したり、別の展開へとズレていったり、そういう持続的な運動のやりとりがせめぎ合う時空はまさにグルーヴであり、バンドである。そう、東京事変は徹底してバンドでありながら、同じ強度でエンタメ的な憑依-演劇の身体を使いこなす。前者は浮雲、伊澤一葉、刄田綴色、浮雲によるところが大きく、後者は椎名林檎によるところが大きい。それは椎名林檎の声色と楽器の関係も大いに関わっているだろう。と、わたしの主観ではそう考えている。うーん、この話は書くと永遠に長くなってしまうから、またいつかちゃんと言葉にできる機会をずっと伺っているのだけれど、それはいつになるのか…見せられるような文章でもないしなあ。

 そういえば、名古屋在住アーティストの林さんに教えてもらったんだけれど、DIR EN GREYの京は自身のパートのクレジットを「vocal」ではなく「voice」にしているらしい。聞いたときは本当に感嘆した。それは椎名林檎と一緒とまで言う確信はないけれど、声を楽器として扱う態度に似てるんじゃないかなと思う。そして曲で展開される京の声は音程、声色、速度、その全てが何通りも展開されていて、もはやそれぞれの声に関係性や連続性が見出せない。声は常に断続され続けている。それは決してただの契機的な連続ではない。にもかかわらずそれが一つの曲として展開されてしまうのはなぜか。これは全部林さんが教えてくれたことを書いているのだけれど、実際に聴いて確かにその通りに感覚されるのから、もう本当に凄い。他のヴィジュアル系はクリーンボイスとシャウト(あるいはデスボイス)という二つの声を二項対立的に扱うことで、歌の物語性を構築しているらしい。しかし京の声色は単純な二項対立や物語の展開として聴くことはほぼ不可能で、それはある秩序だった物語に対して声を当てはめるのではなく、それぞれの声色が別の身体として次々と移行するアレンジメントのプロセスそれ自体をパフォーマンスしているのではないかと思える。それは既存の狂気とは全くかけ離れた狂気の実践だ。と、そんなにわたしはDIR EN GREYに明るくないので、これ以上うかつなことは言わないでおこう…。とにかく、椎名林檎の声色の話からふと思い出した。

 いやー、本当は参加する展覧会が後5日と迫っていて、ブログを書いている暇なんてないのだけれど、マジで、現実逃避する時に限ってそこへめちゃくちゃエネルギーを発揮できるよね。それ、目の前の制作にぶつけろって話やな、全く。辛い。

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