足音が消えるとき

 今日は勤め先の経費で京都へ初めての出張。自分が「出張」を体験する世界線なんて真ったく考えられなかったな。

 展示のための打ち合わせを終えた後ピピロッティ・リスト展を最終日滑り込みで観る。3階の新-近作群はインタラクティブな方法論(音響やクッション、ベッド、あるいはプロジェクション、映像は見られることを初めから要請しているようだ)とオブジェ、映像自体の快楽が軽やかに接合されていた。そしてセクシャルなメタファーとして立ち上がるイメージは双方の接合に裏打ちされている。技術だ。あっぱれする。一方で、1、2階でスクリーニングされていた90年代のシングルチャンネルビデオの方が新作インスタレーション群よりも感覚を媒介として身体を揺らしてきた。それはインタラクティブな技術とは別の回路でのやり取りだと思う。だからと言って新作群より旧作の方がよい!と言いたいわけではない。なぜなら、新作はこの90年代の映像を経た上で時代とともにたどり着いたものとしての充実度をやはり体験として備えていると感じられたからだ。

 しかし、それらを差し置き、本展覧会で一番グッときたのは三階の展示会場で靴を脱がされたことだった。袋を渡され、靴をそこに入れた状態で鑑賞される、会場には絨毯が敷かれているが、所々、会場の導線の床が剥き出しになっている。普段は土足で入ることを想定された床が徹底的に清掃され、それを裸足(今日はサンダルを履いていたため、靴下を履いていない)で踏み締める。そこで感じられる冷気の感触は、妙な背徳感と空間の物質性が感覚される。そう、それは触覚のエロスだ。絨毯の柔らかさとコンクリートの冷気を交互に踏み締めるリズムは、空間の服と皮膚を撫で回す感覚に近い。(前戯)。また、映像インスタレーションに用いられる音響は全体的に小さい音量設定であったにもかかわらず、非常に繊細な音が知覚される。まさにクッションに座ったり、ベッドで寝そべることを必然とするような、滞留することへの自然な手つきがそこにある。故に、人が密集していたけれど、それがあまり気にならなかった。などと考えていたとき不意に気づく。そうこの空間では「足音が全くしない」のだ。それは至ってシンプルなことであって、それは皆靴を脱いでいるからだ。繊細な音の知覚も、クッションに誘われて映像と音ににじり寄り続けることも、音量設計に起因するのではなく、音量設計も含めて、この「足音の消失」によるものだったのではないか、とわたしには思われてならない(もちろんそれを想定して設計されたのかはわからない)。それは、展示設計におけるインタラクティブな方法論として考えられるが、むしろ、数々の他者との非同期的な関係から脱臼し、作品-空間-身体が振動と融和を引き起こす同期体験の方法論としてある。と、勝手にそう位置付けてしまう。足音という身体の双方向性の消失は、翻って身体の内側からあらゆる外的な音を、皮膚を、網膜を、そして他ならぬ来訪者たちを直に撫で回すのだろう。

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