明日の私がそこにいることを想像する/架空の身体

2019/3/12 – 2019/3/21
ge-shuku (Ishikawa)
Artist:
Ayami UEDA
Ryusei MIYAZAKI
Talk:
Ayami UEDA × Ryusei MIYAZAKI 3/16
Ayami UEDA × Ryusei MIYAZAKI × Chikai HORI 3/21

Installation view▼

Flier text

​ 明日、この場所が死んだらどうなるのかな。明日、この私が死んだらどうなるのかな。ほんとうは今しかないこの場所、明21日も同じかどうか誰も知らない場所。いまはわた しはここにいる。わたしはわたしのかたちのまま、きみはきみのかたちのまま、隣にいる。分かり合えない他人のまま、心地よい孤独を抱えたまま、生きていることを見つめ ている。
明日の私がここにいることを想像する。私が死んでも生きている私、この場所が死んでも生きている場所。架空の身体に触れる行為。明日の私に出会う場所。ここではない どこかではない、いまこの場所と私が明日もいるところ。

私たちは、絵を描いている。

​ statement

​ 「明日の私がここにいることを想像する/架空の身体」

ただ生きている、ただそこにある、ということを考える。あるいは、それを肯定してみる。

私たちは、自分が生きているという感覚だけを持ってはなかなか生きられない。それは、人が社会や世界という枠組みの中で存在理由を突きつけられ、目的や役割に則って行動し、ただ生きていることそのものについて意識を向けるにはノイズが多すぎるからだろう。

すべてのものは何かに依存する形で生を引き受ける。しかし、生まれてしまった後は、あらゆる依存から離れた“個”として世界と関わりあう。たとえば、町中を見渡してみればたくさんの家や電柱、花壇やガードレール、道端に生えた雑草などが見えてくる。それらはそれぞれがある目的や生存本能を伴ってそこにあるけれど、最初から関係性を持ってそこにあるわけではない。風景の中のものたちは偶然そこで出会い、本来の理由はどうであれ、お互いがただ生きているものとして関わりあっている。
人も偶然に関わりあう風景の中のただある生の一つだ。自分が生きているという感覚を意識することは、私という主体性を疑ってみる、あるいは再認識してみることではないか。

作品を作るということは、物事を対象化し、無意識下だったものを意識下に引っ張り上げてくるようなことだ。私たちは絵を描くことで偶然つなぎとめられた、ただある生の関わり合いを対象化する。
それを見るということは、移動や生活の中で無意識のうちに繰り返される「見えている」ものを「見る」という行為によって意識することであり、私たちは、風景の中で主体として関わることについて向き合わざるを得ない。

絵を描いている時、私は私が見た風景の、あるいはその絵の中にある風景の主体的な当事者だけれど、描いた絵を飾って見たときは、客観的な「見る人」になる。そのときの目線そのものから離れていく。
それは私が見たという私の身体で起こった出来事を、絵に委ねて私の身体から切り離す行為だ。その時の“私”は今の私の中で目を瞑る。私に依存していたものが自立して、ただある生として立ち上がってゆく。
その時の関わりが消えてしまわないように、ただある生を見つめていられるように、私たちは絵画に「架空の身体」として主体性を委ねてみる。

生きていることそのものを捉えようとした時、それを共有させるための共通の見え方など存在し得ないだろう。それは、人の「見る」という行為が主体性や主観性を伴ってしまうからに他ならない。同じものを「見たまま」見ようとしてもそれぞれに必ずズレが生じてしまう。しかし、そのズレを受け入れることこそ、また「架空の身体」に主体性を委ねることこそ、“私”という主体性を引き受けながらもそれに抗おうとする、ただある生として関わり合おうとする切実な距離だと思う。

これは決して壮大な話ではない。原始的で神秘的な話でもない。ただこの世界と呼ばれるものの中で生活する上で、どうしようもなく当たり前にある平凡な事実に過ぎない。ただ、生きていることそのものが繰り返される中で、ルーティン化された生活に少し風通しをよくしてみようとするだけだ。

架空の身体に預けた主体的な眼差しが、主体的に見る私たちの前に立ち現れてくる。結局、どちらの方が主体かなんてどっちでもよくて、今はただ、その関わりの距離の心地よさに身を委ねるだけなんだろう。