踊る死体/磔のグルーヴ

2022/8/27-2022/9/11
12:00-19:00
myheirloom(in 3331 Arts Chiyoda)

Installation view▼

 Statement

 私の身体では視覚が機能する。だから、日常の大半は視覚を頼りに生きている。視覚は私とそれ以外に境界線を穿つから、それは距離の世界を生きるということだ。距離は外側からものを見ることを可能にしてくれる。またよく見えるというのは輪郭が非常にはっきりすることで、それはとても安全だ。

 私は暫く絵を描いていて、それはずっとずっと、自分のフレームを問い直すことだった。しかし、絵を描く時点でフレームは描かれる前から既に用意されていた。そう気づいた時、白いキャンバスのなかに完成されたありとあらゆる絵が既にそこにあるのだとも、同時に気づくことになった。描く前から、絵は無数の既に用意された選択肢に埋め尽くされていて、それはさながら、大量の死体が転がっているようだった。そこから逃れたくて、時にはキャンバスを切り刻んでみたが、そこには既にフォンタナが転がっていた。木枠を破壊したり構築したりすることと絵を描くこととを同時に行ってもみたが、そこには小林正人が転がっていた。フレームをはみ出すように、その次元を複雑にしてみても、やはりそこにはステラや岡﨑乾二郎が転がっていた。それでも絵を描くには、その死体をかき分けていくしかなかった。

 予定調和の死体から運動を取り戻すには、既に用意されたフレームの周りを包む、偶然性とノイズに満ちたカオスの中へ入っていくほかはない。もはや安全な距離の世界にいるだけでは駄目なのだ。とはいっても、フレームのの世界から完全に逃れ去ることもできなさそうだ。だから、フレームを、有限性を、目一杯肯定するように、バラバラになりそうな私が再び戻ってこれるようなものとして付き合い始めた。それから、私は自身をいっそう複雑にするよう努めた。絵を描くと同時に打楽器やシンセサイザーを演奏しながら自分の呼吸の変化を確かめたり、夜の海に1人潜ったりもした。夜の海の中では視覚が完全に遮断され、ただひたすら波の揺らめきと自分の体温や心臓の音が絡まりあい、内側から漏れ出すような感覚があって、本当に気持ちよかった。自分の距離がどんどん無くなっていくのに、海が肌を纏う温度の感触だけはわかる。「あ、死ぬんだ。」と思った瞬間には咄嗟に水面から顔を出して重い足を何とか動かしながらもとの場所に戻っていたことに気づく。そこで私は距離と輪郭を思い出したし、それがまるっきり、自分が絵を描く理由を証明していた。

 絵を描く時には何が起こっているのだろう。絵を構成する諸形式である点、線、面、色彩。それらが複雑に絡み合うことで絵のモチーフを成立させるような記号(シンボル)が作り出される。 しかし、それと同時に描く自分の体を踊らせるように、線や色彩を流動化させ、その記号を半ば無効にする。そうしたやりとりによって、そこから複雑に屈折した人体や地層の裂け目、まばらな星からなる星座など様々なかたちがあらわれてくる。そのかたちは体が細胞の分裂や結合、消滅を繰り返すように、または環境が分子の結合と分離を繰り返すように、止まることを知らない変化しつつあるかたちとしてあらわれる。作り手である私はそれを捉え、そしてわたし自身も絵に捉えられながら、まるで絵と私が手をとって踊るように複合的なリズムを作り出す。こうした私と絵とのやりとりをバラバラな要素の集合と分離の運動として捉える時、絵はただ描かれるだけのモノではなく、人間とはまた異質の身体として立ち現れてくる。この変化し続ける形としての絵はさながらフレームとともに踊る死体のようだ。

 フレーム、それはどうしようもなく有限な身体との向き合うための方法。

 グルーヴ、それは有限の身体が硬直してしまったり、あるいは完全にバラバラにならないように、互いの帳尻を部分部分で直接確かめ合いながら世界のノイズの中でおのれの身体をふるわせること。

​宮崎 竜成