判断/世界を捌く練習。(大宇陀小学校での特別授業を通して)

10月19日(土)、20日(日)に、奈良県宇陀市にある喜楽座にて行われた「宮崎竜成《肉のエチュード》上映会&トーク in 喜楽座」の関連事業として、宇陀市立大宇陀小学校の五年生に特別授業を行いました。
昨年までこちらの小学校で教員を務められていた池本さんや、宇陀キラ倶楽部の田川さん、そして何より大宇陀小学校の職員の皆様方のお陰で実現した本授業。

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授業のテーマは「加工」について。お肉の塊を切り分けた瞬間に、今まで同じだったものが違う価値=必要なものとそうでないもの、価値が高いものと低いものに分かれるのはなぜだろう。そして必要でないとされたものも、見方を変えれば違った価値が見えてくる。ただ「もったいない」という紋切り型の道徳ではなくて、ものにさまざまなあり方を「見出す」ことが良くも悪くも美術における制作のスタート地点であること。加工の観点から見れば、制作は世界を材料として扱うということでもあり、ではその「材料とする行為」に対してどのように向き合えば良いのだろうか。こうした事柄を一緒に考えようとする授業を行った。
3、4限の2時間を頂いたので、1時間目はこの授業のテーマの元となった映像作品《肉のエチュード》のショートバージョンを鑑賞してもらい、感想をグループごとにみんなで話し合いながらキーワードを出しあった。

(《肉のエチュード》はインターネットでは公開されていないので、作品概要についてはこちらのリンクにて確認していただけると幸いです。
http://ryuseimiyazaki.com/etudeofmeet

「見た目が良い方が美味しそうに感じる」、1人の生徒がそういってくれたので、私は「そうかもしれない。ただ、見た目の好みは人それぞれかもしれないね」と応答する。
「私は薄切りが好き」、「私はサイコロステーキ!」。一つのグループで次々と自身の好みの形が飛び交う。
「なんでステーキじゃなくて「サイコロ」ステーキの見た目が好きなの?」。
「うーん…なんとなく…あっ、でも食べやすいサイズ感に親近感が湧くのかも」。なるほどと思う。
「食べるときの味は一緒なんだから自分は安い方を買いたい」そんな声も上がる。
それら全てが肯定される。なぜなら、こうした判断はこちら側、つまり消費者側の主観であるからだ。主観はある認知傾向や同調意識を生みはするが、原理的にはその主観の数だけ違う判断が起こりうる。ではなぜ、そうであるにもかかわらず、切り分けることで明確に必要なものと必要でないものが生まれるのか、どうして切れば切る程、小さくなればなるほど価値が上がっていくのか。それも主観によるのではないか。こうした問いに対してとあるグループがこのように言う。「切り分けることで希少性が生まれる」と。
確かに一つの肉塊には脂、骨、赤身、そしてそれらの中に硬い場所、柔らかい場所など、さまざまな特徴がその中に含まれているといえる。その中の一部分のみを取り出すことは、宝石の原石となる石から最も輝く部分を取り出し、削ったり磨いたりしていくことと重なる。つまり、より「純粋」なものを求めるという行為が、モノの価値を担保し、必然的に、純粋でないものを削ぎ落としていくという構造につながる。
《肉のエチュード》に出てくる肉の塊をみて「グロい」と発言する生徒が1人いた。その発言自体をひとまず否定せず、「じゃあ、お店に並んでいる切り分けられたお肉はグロいと思う?」と聞いてみた。
「グロくない」。
「じゃあその違いはなんだろう?整っているかどうか?」
「うん。」
確かにこうした「価値」観は広く浸透しているが、一方でこうした価値観は、容易に純粋で整ったものだけを取り出すためにそれ以外のものを不純物として排除する、という思想と表裏一体であるし、事実その暴走が歴史的に悲惨な事実を招いたこともある。ミクロなレベルでも、学校や会社といった集団としての塊で同様の事態は容易に起こりうるだろう。
「加工」、そして捌き、切り分けるということにはこうした性質を持ち合わせている。しかし、それを道徳としてでなく、倫理的なものとして今の私が小学5年生と一緒に考えたり伝えたりするにはあまりにも難しい問題である。
私は1時間目の最後に、高級焼肉屋の場合、肉を塊で仕入れ、そこから希少部位だけを切り出して他の部分は全て捨ててしまう店があるという話をした。原価が抑えられる塊肉を仕入れ、そこから高い値がつく部分だけを提供する方が、かえってコスパが良いからだ。一方で肉の脂からスジまであらゆる部分を活用し、流通させる焼肉店や精肉店も存在する。
「えーーもったいない!」と多数の生徒が声を上げる。確かにそうかもしれない。授業の中では上手く返すことができなかったが、しかし、もったいないとは何に対してなのか?食べられるなら使った方がいいから?それは使えるものに対してその思考を放棄することが愚かであるから?それとも命をいただく者としての弔いとしてふさわしくないから?どんな理由であれ、おそらく「もったいない」は扱う物をどのように捉えていくかに差し向けられている。
授業の2日前、作品上映会の関連イベントとして、《肉のエチュード》に出演している精肉加工販売を行う父と親子トークイベントを行ったのだが、その中で父は「希少部位だけ取り出して良い部分だけを提供する方が楽なんです。それぞれの部位に適性を見出し、それを隈なく流通させる方が、事業者としてよっぽど難しい」と話した。続けてこう言う。
「どちらが良いとか悪いとかではない。どちらもお店側の主観や判断でやるということなんです」。
そう、今この授業において肝心なのは、切り分けることで必要なものと必要じゃないものに分かれていき、そこから排外主義が生まれるという構造を共有するのではなく、そしてそれをもったいないの名の下に無条件に否定したりしていくことでもなく、切り分けていくものをどのように扱うか、その判断を行う自分自身がどのような信念に基づいているのか、そこをものを扱う一人一人が考えることができるかどうかである。そこでは切り分けたものを簡単に捨てることもできるし、その全てに違った性質を見出し、変化させることもできる。後者は人間にとって表面的なコスパが悪い行為かもしれない。ただ、それを安易なエコロジーやSDGs論に絡めとるのではなく、物を扱うことの根源的なあり方として考えてみる必要性を感じる。なぜなら、価値は最初からついているのではなく、判断によって初めて浮かび上がる物なのだから

2時間目は生徒が2人ペアになって絵を描き、それを私の指示に従って切り分けていくというワークショップを行った。
絵を描くターンでは今回の授業の実現させてくれた池本さんに設計してもらっていたので、ここで一旦バトンタッチし、進行していただいた。池本さんが一声を発しただけで、生徒たちが池本さんの方に集中する。生徒たちはまず2人ペアになって、好きな色のクレヨンを選び、どちらかが三角を、どちらかが四角の図形を交互に描いていく。あまり深く考えず、直感で大小さまざまな図形を書き込む。ペアによってはお互いの図形が重ならないように描く生徒もしばしば観られるが、積極的にお互いの図形が重なっていくように促していく。

しばらく描写を続けていくと、ベン図のように重なった三角と四角の図形の間からさまざまな形が現れてくる。この間わずか5分程度。生徒は皆、熱中して取り組んでいる。あっという間に画面が埋まるペアもいれば、構図のコンポジションを意識して丁寧に描いていくペアも見られる。

だいたい画面が埋まってきたら次の段階。今度はまたお互いに違うクレヨンを手に持って、描いた画面に見えるさまざまに縁取られた形を交互に塗りつぶしていく。
これは部分部分の形が集まることで塊としての全体の形が作られること、そしてその全体の中には、さまざまな形が内包されていること(あるいはさまざまな違いが見出せる状態であること)を絵を描くことを通して作ったり確かめたりする行為であるといえる。線の段階ではあまり見出すことが難しかった塊感が、色を塗り分けることで徐々に現れ始める。

生徒たちがどこまでこの構造を実感しているかは正直わからない。ただ、事実として多種多様な形やその相対としての塊が机のあちこちで現れている。
ある程度、全体が塗り分けられたら、絵を描くターンはここで終了。池本さんの鮮やかな語りと進行により、わずか15分程度で生徒たちは絵を描き上げていった。
ここからはまた私にバトンタッチし、進行していく。
大抵の場合、絵を描いた後はそれを作品として額に入れるなどして飾るか保管するかが常であるが、今回のワークショップはここからが本番である。
次は、引き続き同じペアのままで、今描いた絵を私が設定した条件=テーマで肉を捌くように切り出していくという作業を行う。ここで私が設定した条件は、
「この絵の中で一番”かっこいい”部分だけを切り出すこと」
そして、
「今描いたり色を塗り分けた形に沿って切り出すこと」
以上の二点である。
「かっこいい」という言葉は原理的には多様な判断があるといえつつも、ある程度、社会的なイデオロギーやプロパガンダによって明確な傾向が現れるものでもある。ゆえにある種の暴力性を孕みかねないが、小学生でも判断しやすく、そして切り分けることの純粋性という観点から見ても明快なテーマだと思って選択した。また、塗り分けた形に沿って切るという制限は、ただ自由にやる、ということではなく、塊としての形の中に内在するさまざまなミクロな形の違いを見出していく、という作業にすることが重要だからである。
テーマに合わせて生徒たちは思い思いにハサミを入れ始める。2人でどこを切るか吟味し、なかなか切り始めないペアもいくつか見られる。様子を見ながら、私は「本当に今、切っている部分がかっこいいですか?一番かっこいい部分を決めて切るんです。もっと切り落とせる部分はありませんか。どこまでを残すか、しっかり判断して切りましょう」と、少し迫る言い方で声をかける。しばらく時間が経つと、大体のペアが切り終えた様子を見せていくが、その結果は私が想定していたよりも遥かに多様なものが切り出されていた。

細長くて尖った部分を切り出すペアがいくつか存在し、ある傾向を感じられたものの、そのサイズ感はバラバラであり、いくつかのミクロな形が複合した状態で切り出したペアもいれば、一つの最小単位の形を切り出したペアもみられる。そのほかにも、もはや見えるかどうかわからないほどの見つけられる形の中で最も小さい最小単位の形を切り出すペアもいれば、形よりも、塗られた色を基準に切り出すペアもいる。
当人たちにとっては偶発的に生まれた形から、かっこいいという紋切り型のテーマの中で、ペア通しの主観から判断の基準を自ら設計し、形を選び出したことがはっきりと伺える。そう、この自ら設計した判断が形として正に「切り出され」、見えるようになる、それが肝要である。
改めて1組のペアの切り出した形と残った絵を手に取って「今、ここではかっこいいものに価値が生まれた世界です。だからかっこいいものだけが求められる場合、残った絵を残しておくのは効率が悪い。というか必要ではありません。だから、大抵の場合、高級焼肉店のようにこの絵も捨ててしまいます」と発言する。
「もったいない!」再び生徒たちがそう声を上げる。
「もったいない、確かにそうかもしれないけれど、かっこいいものだけが必要なのであれば仕方がない。」
続けて言う。
「けど、また別のテーマや判断を用いればそんなことはなくなります。今捨てちゃうかもしれない残った絵は、かっこいいを基準にしているから必要ないものになるだけであって、また違ったテーマや役割、使い方を見いだせれば、結果的に必要でない部分はなくなります。」
「だから、今度は今度は自分たちでテーマを設定して次々今ある絵を切り分けていきましょう」。
そう言ってここからは、切り出す基準の元となるテーマ自体もそれぞれのペアで設定しながらどんどん絵から形を切り出してもらう。それを見出すことは本来、強制されて行うものではない。見出すから素晴らしいと無条件に褒めそやされるものでもない。しかし、今回は絵を切り出すことを通して判断すること、そして世界を捌くことの練習である。
テーマに悩むペアがいれば、こちらからまたさっきとは異なるテーマを提案する。しかし、終盤になるとそんな必要がないほど、生徒たちは縦横無尽に加工を行う。例えば、曲線を描く細長い形を切り出して、自身の尻尾を表現するペア、魚の形に見える部分を切り出すペア、縁の長い輪郭線を切り出して自分の身長よりも長い形を切り出すペア…
それらの判断はもはや紋切り型のテーマなど必要とせず、生徒一人一人がさまざまな形から何を取り出すか、どのように形を見れば面白いのか、こうした判断の基準を自然に、自らの身体におけるリアリティや発想で持って行っている。基準の元を提供されなくても、こんなにもさまざまな基準が現れるのだ。

そろそろ終わりの時間に差し掛かった頃、池本さんが1組のペアの切っているものを指して「今、このペアは形を切るためにまずざっくりと余分なところを含めて切ってから、綺麗に形を切るために白い部分を切ってるよね、これってさっき見た映像のお肉を切っている様子に似てないかな」と言う。もちろん全員ではないが、一部の生徒たちがハッとした顔で「なるほど!」と声を出す。少なくともこの空間のいくつかの生徒が、今行ってきた営みと食肉加工の営みとが繋がっていく。じゃあこの綺麗に形を切るために落とされた白い紙屑たちはどのようなあり方を提示できるだろうか。
授業が終わり、「この切り出したもの達はどうしますか?」と質問されたので、「紙屑一つまで全てこちらで持ち帰ります」と私は提案する。
こうした授業をおこなったので、それを最後は捨ててしまうのではなく、私自身が今回の授業で生まれたこれらの形を材料としていかに扱い、残すのか。そこまでおこなって初めてこのワークが成立するのではないかと思うからだ。一方で、私が生徒達の作ったもので何かを作るということ、そしてそれを作品と名指すことには搾取的な構造を持つ。ゆえに残されたこれらの形をどのように加工し、その判断にどのように向き合うのか、まだどのような落とし所をつけるかは決めあぐねているが、私自身もそこを大きく問われている。

もしも彼らが君の何かを盗んだとして
それはくだらないものだよ
返して貰うまでもない筈何故なら
価値は生命に従って付いている

椎名林檎 ありあまる富


今回の授業とワークショップはかなり難しい問いを大きく打ち出しており、また私の力不足もあってまだまだ改善の余地があるし、もっと深められたり伝えられる言葉があっただろうという部分が多々あった。
そしてどこまで何を伝えることができたのか、そこも正直わからない。ただ、授業の中で加工をめぐるさまざまな判断が泡立っており、その判断に正解や不正解をつけるのではない形で表れていたのではないかと思う。そして何より私自身がとても勉強になった。

改めて授業を実現させてくれた皆様と、大宇陀小学校五年生の皆に感謝します。ありがとうございました。
今後、この授業やワークショップはブラッシュアップして継続していきたいと思っているので、もしよろしければお誘いお待ちしています。

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