25才最後の夜に

「コロナはいつまで続くのだろう。」
 わたしの周りではもうそういう言葉を誰も言わなくなった。感染状況うんぬんではなく、きっとこれは人の意識の問題だ。
 緊急事態宣言したり、やめたり、またしたり、やめたり。蔓延防止措置をしたり、やめたり、またしたり、やめたり。こうした反復によって皆、質的な持続が緩やかに抑圧されることに慣れる。惰性の消耗戦。皆、コロナに慣れて生活が戻る前に、緊急事態に慣れてしまうんじゃないか。私の体も、緊急事態の社会そのものになった。なんて空疎な形なんだろう。

 今、ロシア軍がウクライナの首都キエフを侵略している。21世紀に戦争だなんて。戦争を忘れてはいけないってずっと教えられてきたけれど、戦争は今、歴史から出来事になった。
 人々から明日を奪い、現在へ磔にする明滅、ウクライナのリアルタイム配信では「もっと激しくならんかな」というコメントで溢れている。憂鬱になりながら、でもそれが多様性なんだと言うことを突きつけられる。多様性は分断そのものだとアベプラの学者は言っていた。わたしはその人が嫌いだけれど、まったくそうだなと思う。普段多様性多様性と掲げる人たちは#NO WARを掲げて一つになり、ツイッターでは何が事実で何がデマかわからない情報が右下から上に流れていく。残酷なまでに唯物論となった人の映像。概念となった英霊。イメージと情報処理が固く手を結ぶ。ポストトゥルースなんてよくう言うよ。
 匿名と実存が清濁合わせ飲むこの場所ではみんな同じになることを心へと要請する。ここは宣言であり、同時にどうでもいいことの細やかな断片でもある。デモクラシーな暮らし、それでも日常は続いていくし、1時間後にはきっとどこかで誰かと笑ったり怒ったりしている。いやらしいほどの日常を突きつけられるわたしたちはそれを投げ出す勇気はないし、その必要もないはずだ。
 ポジティブに分断を引き受けるために制作をしているはずだった。分断と手を結びたいと思った。そのためにせかいやからだを無数の現在に開いているつもりだったのに。いつだって複雑になる準備はできていた。
 あっという間に明日は亡くなった。現在に縛りつけるための準備。その形はぐちゃぐちゃになって、新しく作られるだろうその形は全く新しくもなんともない。今、環境は開かれてしまった、いや、こじ開けられてしまった。ここでの切断は、身体をただの制度や機械にしてしまう。もう、秩序も混沌も語ることはできなくなった。
 加速主義者が見た夢はこんなものだったのか?昨日と一昨日が区別できない。行動は、運動は、速さは、もっと変化のために。明日を忘れたわたしは自由であることも忘れてしまっているんだろうか。
 ルルーシュはそれでも俺は明日が欲しいと言った。明日は今よりもっと良くなると、彼は信じていた。だけれど、明日がよくなるかなんてわからない。何が良くて何が悪いかなんて、個人の質にかかっている。だからこそ、大事なのは、ただ、明日を迎えようとすると言うことだ。切断や分断は、わたしたちが質を取り戻すためにある。墓を建てるには早すぎる。彼ら彼女らがそうならないように、命が擦り切れてしまわないように、代わりに墓を建て続けようとするのが制作であるはずだ。めいいっぱいの深呼吸を。

 自分が年齢を重ねていくことについて、なんで昔はあんなに喜べたんだろう。数字に+1をすることがこんなにも自分の体だったなんて。そのときは確かにわたしは明日になっていて、その数字には手触りがあった。いや、今もそれはあるはずなんだけれど。
 外の気温は−2度。バイト終わりの車で窓を開ける。今日はありえないくらいの人が来て、心ない罵倒やクレームを一身に引き受ける日だった。FMのニュースでは蔓延防止措置の延長についての情報が流れている。わたしからどんどん熱が抜けていって、それがとても心地よい。めいいっぱいの今日を吸い込んでふと液晶に目をやる。
「あ、もう24時すぎてるやん。」 

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