作品展示の倫理について

 今日、ロープを張り巡らせた建築に女性を吊す作品の安全面を批判するツイートが流れてきた。批判してる方の意見は当然分かるのだけれど、わたしの家の天井照明もふとした劣化で落ちてきて、来訪者に激突し、死ぬこともある。とはいえ日常生活の中でそんなリスクは全くと言っていいほど問題にならない。「リスクは最大限軽減すべし。」という議論はパブリックという状況下になればなるほど顕在化する。コロナも同じ。おそらくこの顕在化が国家レベルで掲げられることを生権力というのだろう。ただ、それが生活と表裏一体となったとき、偶然訪れる死という避けがたいリスクについてはまるでなかったことになったかのように後退する(車の事故や我が家の照明のように)。わたしは美術作品に関わらず、あらゆる局面において、リスクの軽減と技術についてのみ言及することには懸念がある。なぜなら、リスク軽減の最大化のみをあらゆる場面に適応させるロジックは、突き詰めていえば、「家の壁は鋭角だらけで危ない、ぶつかったら死ぬ!だから家の壁は全部丸くしましょう!」にまで及んでしまうからだ。ここでは我々がリスクとどのような関係を結んでいるかが置き去りにされている。

 つまり、ここで問題に挙げるべきは吊るされた女性アクターがこれらのリスクを作品のために背負っているか、そして作家当人がそのリスクを自覚しているか否かだ。作品におけるリスクの線引きとケア、そして自由の検討はそこから始まるが、パブリックになればなるほどそこが見えなくなる。これは生権力のあやうさと倫理についての問題といえる。

 ああ技術というものの信用の高さたるや。スタントマンは、めちゃくちゃ危なくて、死ぬ確率も高いことやっているのに、演者の技術があるからみんな納得する。どんだけ技術があってもバンバン怪我したり死んでいるとしても、だ。「技術によって最大限リスク回避しました。」という免罪符がどれだけ有効か。
大事なのはそれだけじゃなくて、スタントマンが相応に死のリスクを負っているということもあるというのに。

 それを鑑賞者のリスクとして考えると、わたしは鑑賞者が相応の確率で死ぬかもしれない展示はやってよいと思う。そのかわり、鑑賞者がそのリスクを請け負うかどうかの判断ができる状況にするのならば。チンポムの例がそうであろう。無慈悲な偶然性を引き受ける覚悟。

 たとえば2016年に模型展示で起こった火災死傷事件の問題は主催や作者が当のリスクを自覚、認識できていなかったことだ。単にリスクは最大限技術によって軽減しなければいけないという議論や批判”だけ”では何も解決しない。リスク軽減のための技術はもちろん必要であるが、展示リスクの問題を倫理的に考えたいのならば、リスクを自覚し、それとどのように付き合うのか、作家や鑑賞者がその都度検討するべきだと思う。ロープ作品の件もそこが主眼になる。

 そしてこの議論は過去現在未来における自分自身の強い自戒でもある。 

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